『そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」』(イザヤ6:5)
誰でもイエス様を見るならば、自分が罪人であることがはっきりと分かります。イザヤも神様を見たとたん、自分がどんなに汚れた罪人であるか分かったのです。
神様を見るまでは、それほどの罪意識を持っていませんでした。しかし神様の御前に立つやいなや、国を憂える心よも、自分の罪深さと汚れを憂えなければならない状態になりました。
そこでイザヤは罪を悟り、罪を告白し、悔い改めたのです。そのような彼に、神様は炭火をとってこう言われたのです。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪もあがなわれた。」(イザヤ6:7)
このように誰でも天の父なる神様に出会うならば、罪を悟り悔い改めの祈りが出てくるのです。悔い改めのない信仰は神様と出会ったことがない信仰です。
悔い改めがない人は宗教的にイエス様を知っているだけです。イエス様を救い主として知っているのではありません。ペテロも初めてイエス様と出会ったとき、悔い改めの祈りをささげました。「シモン・ペテロはイエスの足下にひれ伏して、『主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから。』と言った。」(ルカ5:8)
この後、ペテロはイエス様の弟子となったのちも、何度も罪を犯しました。しかしその都度、彼は深く悔い改め、神様は彼の罪を許してくださったのです。
この世で罪を犯さない人は誰もいません。私たちはいつも悔い改めをする必要があるのです。ペテロとイスカリオテのユダの違いは、ユダは悔い改めをしないで自殺したことです。
悔い改めと許しは、私たちの人格を再び創造される神様の恵みが臨む機会となります。悔い改めと許しなしに、人は天の御国を所有することは出来ません。
いま待降節の時に、祈りをもって神様に近づき、悔い改めと許しを得ていきましょう。ハレルヤ。
『「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」とはどういう意味か、行って学んできなさい。私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』(マタイ9:13)