『律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。』(ガラテヤ5:14)
今日の聖句は、最も簡潔な律法の定義です。律法はモーセの十戒から始まり、613ありますが、そこに口伝律法が加わり4万ほどになりました。これをみな守ることは不可能です。
イエス様はマタイ22章で律法学者の問いに答えて、「そこでイエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じように大切です。律法全体と予言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」と告げています。
しかし、パウロはもっと簡潔にし、『律法の全体は、「あなたの 隣人をあなた自身のように愛せよ。」と断言しています。そしてこの決断がイエス様の教えに通じるのです。それはイエス様が、ヨハネ15章12節で「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」と告げられているからです。
ではイエス様の「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」のみことばはどうなるのでしょう。それは、兄弟を愛することが神様を愛するこだからです。
イエス様はマタイ25章で「すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを 見て、食べるものを差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。』…すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」と告げています。
イエス様のマタイ22章での答えは、律法学者に対してです。しかし、民衆には「神様を愛せよ。」と言っても、分かりにくく、「あなたの父と母を敬え。」と言えば、具体性があって、分かり安いのです。また、目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神様を愛することは出来ないことです。神様を愛する者は、兄弟をも愛するべきです。ハレルヤ。アーメン。
『それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。』
(マタイ7:12)