『幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。』
(詩1:1-3)
今日は祝福される人についてです。その第一は「悪者のはかりごとに歩まず、」とあります。一般に悪者とは犯罪者のことを言います。しかし、聖書では神様を信じない人のことです。 その人は、人間中心主義の生活をします。そして神様はいないと言います。
第二は「罪びとの道に立たず、」とあります。聖書では罪のことをギリシア語で「ハマルテヤ」と言います。これは的に向って射った矢が的から外れることを言います。人生を自分だけのものとし、自己実現を願い人を顧みない生活のことです。
第三は「あざける者の座に着かなかった、その人。」とあります。あざける者とは、神様を神様として認めず、自分を神とする人です。創世記三章五節を見ますと、「あなたがたがそれを食べるその時、あなた方の目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と サタンはエバを騙しました。そして彼らは食べたのです。
その結果すべての人に自我が芽生え、人々の間に軋轢が始まりました。自分の意見を人に従わせようとするからです。しかし、これらのみことばを知り、そこから離れる人は幸いな人です。
「まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。」とあります。イエス様は生きた神様のみことばであり、律法そのものです。そのお方が、十字架について、
「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」(ロマ10:4)
と告げています。イエス様は 十字架により、私たちにできなかった律法を完成してくださいました。アーメン。
人は自分の愛することを口にするものです。画家は絵の話を、音楽家は音楽の話を、そして私はみことばを話します。「私が水の中を過ぎるときも、主は私と共におり、川を渡るときも、私は押し流されない。火の中を歩いても、私は焼かれず、炎は私に燃えつかない。」(イザヤ43:2)ハレルヤ。
『人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、その唇による収穫に満たされる。死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。』(箴言18:20-21)