『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。』(箴言4:23)
人生は私たちの心にあるものが表れて出てくるものです。イエス様は次のように言われました。「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪いくらから悪いものを出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」(ルカ6:45)
イスカリオテのユダは、イエス様を救い主として信じるよりは、政治的な革命家として期待していたのです。彼が求めていたのは権力でした。しかし、イエス様は彼の期待しているような方ではないことが分かってきたのです。イエス様は、ご自分がエルサレムで十字架にかかって死ぬことに言及されました。
彼の夢は破れイエス様に絶望しました。そして彼はイエス様を銀30枚で売り渡したのです。イエス様を売った彼の心はさらに深く絶望し、やがて首を括って自殺していくのです。
そうしてもう一人の弟子、ペテロもイエス様を、「神かけて誓う、私はあの男を知らない。」と呪い、否認するのです。しかし、このペテロは後にキリストの使徒として大きく用いられる人となっていくのです。イエス様を裏切ったという点では同じこの二人の運命は、なぜこんなにも違ってしまったのでしょう。
ペテロはイエス様を救い主として信じていました。彼は、「あなたがたはわたしをだれだと言いますか。」と問われたイエス様に、「あなたは生ける神の子キリストです。」とその信仰を告白したのです。ペテロがイエス様を否認したのは、彼の臆病な心からでした。しかし、彼はその心を悲しみ悔い改めたのです。
しかし、ユダはイエス様を救い主としては信じてはいなかったのです。彼はただイエス様に人間的な期待を寄せていただけです。彼は自分の心が悔い改めて変えられることより、ただ、政治的、社会的状況が変わることを求めていたのです。
今も、多くの人がイスカリオテのユダのように、イエス様を人間的に、世的に期待し、やがて、失望感を抱いてイエス様から離れていくのです。しかしイエス様は、私たちの罪に汚れた心を新しく変えてくださる救い主です。人の心は人間的な手段で変わることはありません。ただイエス様の十字架の血によって新しくされる以外にありません。アーメン。
『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(Ⅱコリント5:17)