『しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』(ロマ8:37)
今日は小坂先生から、礼拝についての学びです。日本では、神社仏閣へ行き手を合わせてお参りをする習慣があります。 願いが叶えば喜び、願いが叶わなければ他の神社へ行きます。
このような考え方がキリスト教会にも入り、信徒の祈りは、お願いばかりになっているのではないでしょうか。今日は本当の礼拝とは何かを考えましょう。
礼拝は英語でサービスと言います。このことばのとおりに、礼拝は、神様にサービスをすることです。神様に自分を聖なる生きた供え物としてささげ。感謝と賛美をささげるのです。それは、天と地を創られた神様が私たちを愛し、私たちすべてのため、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡してくださったからです。このお方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
たしかに、クリスチャンはみな恵まれます。しかし、恵まれるから礼拝するのではありません。神様を愛し、礼拝するので恵まれるのです。このことが大切です。
また、クリスチャンになれば、すべて自分の願いのとおりになるのでもありません。病にもなれば、事故にも会います。他の人々となにも変わりません。だからと言って神様の愛が私たちから離れるのではありません。これらのことの中にあっても、私たちは、圧倒的な勝利者となるのです。
使徒パウロは、鞭に打たれ、獄に入れられ、石打にも会いました。また、肉体に一つのとげが与えられ、これを私から去らせてください。と三度も願いました。しかし主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。と告げています。
私も苦しい道を歩みました。しかし聖書が「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(ロマ5:3-4)と告げているとおりです。私も昔の私ではありません。ハレルヤ。
「文責 真人」
『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(Ⅱコリント5:17)