『この川が流れていく所ではどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生き
る。』(エゼキエル47:9)
エゼキエル47章は示唆に富んでいます。1節には「…水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。…」とあります。この水は、永遠から流れ出て民の渇きをいやす命の水です。
3節から「…一千キュピトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。彼がさらに一千キュピトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュピトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。彼がさらに一千キュピトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。」とあります。
ここに一千キュピトが4回も出てきます。これは、泉の流れが成長し渡ることのできない川となったことを示しています。
新約聖書ではイエス様が、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)と告げています。これはイエス様を信じるとき、私たちに与えられる御霊のことです。
そしてヨハネ7章38節ではイエス様が「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と大声で告げています。 これは「イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」(ヨハネ7:39)と教えています。
このことから、私たち自身が永遠のいのちの水を流す神様の神殿と知ることができます。聖書も、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)と告げています。
この地上の水を飲む者はだれでも、また渇きます。この世のもので心が満足することはないからです。むしろ、ますます渇きます。しかし、私たちが信仰の歩みをとおして、私たちの心をイエス様に明け渡すならば、私たちのうちにある泉は、川となって流れ出でてきます。ハレルヤ。
『川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が成長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。』(エゼキエル47:12)