『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。― 主の御告げ。― それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』
(エレミヤ29:11)
今日はエレミヤ書からです。この時代は、南ユダが崩壊し、民はバビロンに捕らえ移されるという、最も暗い時代でした。民は、希望を失い、破滅に向かって進むほか道がありません。
しかしこのような時代背景の中で、聖句が告げられました。そして、エレミヤの預言の通りに、イスラエルの民は捕囚から解放され、国家を再建したのです。
イエス様は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)と言われました。
そのように、私たちは自分の考えに終止符を打ち、神様の告げられたみことばを、素直に信じて受け入れましょう。そうすればこれが力ある信仰となり、奇跡を生み出すのです。
十一節では、「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求めて祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」と告げています。イエス様も、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と言われました。
もし、私たちが神様のみことばに従い、敵を赦し愛することができるならば、私たちは完全なものとして成長し、そのなすところはみな栄えます。神様が私たちに願っておられることは私たちがみことばの中に生きることです。
しかし、私たちは自分の知識や経験の中で生きています。これでは、結果はすべて予想ができてしまい、予想のとうりに成るだけです。そして、私たちは自分の考えに縛られて、現実を造り現実の奴隷となっているのではないでしょうか。
イエス様がこの世界に来られたのは、そのような奴隷となっている私たちを解放するためです。それは現実を見て、現実に支配されて苦しむことからの救いです。
その方法は、みことばを信じ、みことばを思い、みことばに生きることです。聖書は「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(へブル11:3)と教えています。ハレルヤ。
『するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」』(マルコ9:23)