『だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物より大切なもの、からだは着物より大切なものではありませんか。』(マタイ6:25)
今日イエス様は山上の垂訓で、人生を意義あるものとするために、まず第一とすべきは何かを教えています。「いのちは食べ物より大切なもの、からだは着物より大切なものではありませんか。」と告げます。
現代社会は、いのちより食べ物を大切に思い、からだより服の方を大切に思っているのです。これらは黄金万能主義の考えから出てきています。人々は、物質を得るためには、努力と時間を惜しみません。しかし、最も大切ないのちとからだについて時間をささげることを惜しむのです。
神様の観点から見るならば、食べて生きることは簡単なことです。神様は賤しいいのちであっても、ご自身の創造されたいのちをすべて尊んでおられます。
「空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっと優れたものではありませんか。…野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」(マタイ6:26,28,29)
主は、空の鳥、野の花を養い、着飾り、そのいのちを慈しんでおられるのです。まして、人のいのちを尊ばれないことがあるでしょうか。人々がいのちの尊さを知り、いのちを守られる神様を求めて行くなら、食べるもの、着るものは、神様が自然に解決してくださるのです。
この世の人々は、このようなことを愚かなことと思うでしょう。しかし、人の思考や理論、自然法則を超越して主は働いてくださるのです。 主は、主を信じない異邦人たちの必要さえも備えてくださるのです。まして、イエス・キリストの血潮をもってあがない、聖霊様を住まわせておられる神の子たちの必要を備えられないことなどありえません。
私たちは何よりも、いのちと永遠の救いを、神の国とその義とを求めることを、何よりも第一としましょう。このような生活をするとき、食べて、着て、飲むものはすべて豊かに与えられます。ハレルヤ。
『私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。』(申命記29:5)